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■人形町いまむかし■
人形町は、今から四百年余り前の天正十八年(1590)、徳川家康が江戸に入城した時に始まります。
江戸城の東に広がる荒れた平地と干潟を埋立て造成し、城下町に必要な商業地を日本橋を中心に建設しました。
人形町は、江戸時代江戸の商業を支えてきた日本橋の中にあって、商業だけでなく独自の社会風俗を育んできました。
■江戸の地の支配者たち■
関東の独立運動を起こした平将門(?〜940)が活躍する頃には、隅田川や日比谷入江の沿岸に多くの集落が点在するようになりました。
室町時代になると、関東管領上杉定正の執事(家老)であった太田道灌が、康正三年(1457)に江戸城を築きます。
しかし、道灌は文明十八年(1486)主君上杉定正に暗殺され、城下町江戸はさびれてしまいます。
江戸が再び活気を取り戻すのは、天正十八年(1590)に徳川家康が江戸入城をしてからで、約一世紀を待たなければなりませんでした。
家康が征夷大将軍に任じられてから三十数年で、江戸城とともに江戸の造成と町割りも出来あがりました。
■江戸歌舞伎街人形町■
寛永九年(1632)、猿若座(後の中村座)が、続いて市村座が人形町に移って来ます。
江戸歌舞伎の二座がこの土地から始まりました。
芝居小屋や見世物小屋が建てられ、だんだんと芝居街が確立しました。
そして、江戸唯一の歓楽街となり、遊芸の里として人気を集めて繁盛し、発展してゆきました。
その場所は、現在の人形町三丁目と堀留町の一部で、当時は堺町に中村座が、葺屋町に市村座が櫓を上げており、二つの町にあったことから通称二丁町と呼ばれていました。
■人形あやつり座■
桟敷での芝居見物は、木戸銭が高額ですので、一般庶民には不向きでした。
そこで、人形あやつり芝居がほどなく登場してきました。
人形あやつり芝居は、一幕とか二幕の短い筋書きで一日に三回も客を入れ替える興業でした。
舞台装置の大道具も、人形の衣装も安直なものですので、安い木戸銭で、しかも短い時間で十分に芝居を楽しめました。
■人形町の町名由来■
人形あやつりの芝居で使われる人形を製作し、修理する人や、人形を舞台であやつる人形師が大勢いて暮らしている界隈は、二丁目の周辺です。
あやつり人形座が数件あり、それに携る人達がいるこの土地を人形の町と呼ぶようになったと考えられます。
地図の上に"人形丁"と書かれていたのは、通りの呼称としてでした。
正式に人形町が町名になったのは、関東大震災後の区画整理で、昭和七年以降になってからのことです。
■口入宿(くちいれやど)■
人形町から日本橋に通じる道に、親父橋と呼ぶ橋が架っていました。
この周辺の芳町には、江戸の頃から口入宿が軒をつらねるようにありました。
以前は職業安定所、いまのハローワークには大勢の人が集まり、就職(奉公)先をえらぶ姿が、各々の店で見られたのが早朝の風景でした。
江戸はもちろん近県から集ってきて、生業に付きたい雇われを望む人、つまり職を求める人の希望を、次から次と帖面に書きとめる帖付けの役は、えんまと呼ばれている番頭でした。
午前七時頃になると、一同に集まった広間で帖付けのえんまが、何處の何屋または何商売の飯炊き、あるいは出前持ちはどうか、と云うように職を斡旋するのが口入宿でした。
明治になって早々から人形町通りが確立し、各店が並び繁昌したのは、江戸時代からここ一ヶ所に在った口入宿街に、毎日のように大勢の人が集ってきたのも、人形町繁栄の一助であったはずです。
■蠣殻町銀座〜銀座ここにあり〜■
銀座といえば、江戸のごく初期の慶長十七年(1612)に、銀貨と禁制品である銀のこと一切を、取り扱う銀座役所が現在の銀座に在りました。
松平定信の寛政十二年(1800)に銀貨鋳造所で、銀貨改鋳の不正事件が発覚して、銀座役人が処罰され島流しの刑に服する役人もいました。
その結果銀座は日本橋の蠣殻町に移転を命ぜられるという事になって、亨和元年(1801)七月に蠣殻町に3,560坪の敷地をもらって、役所がそっくり銀座から移転してきて、以後この地を蠣殻町銀座と呼ぶようになりました。
冨士ビルのあるこの界隈は蠣殻町銀座の一角でした。
■西郷隆盛居住跡■
慶応三年十二月の将軍慶喜の大政奉還、そして慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いを分岐点に、日本の歴史は大きく転回してゆきました。
幕府はフランスの力を、朝廷方は政権争奪にイギリスの援助を、いづれも後楯としていましたが、両者とも外国の勢力を利用して戦うところまでは、いきませんでした。
その間に勝海舟と西郷隆盛が、三月二十四日、三田薩摩屋敷において江戸の最も重大な会見があった事で、江戸を戦火から守り、江戸城の無血明渡しが決定したわけで、近代東京の基になる貢献をした事になるでしょう。
維新政府は西郷隆盛の功績に応えて、当時の蠣殻町に在った大名屋敷を提供しました。
住 所・第一大区、十四小区
日本橋・蠣殻町一丁目壹番地
総坪数・二千六百三十三坪
西郷さんの住んでいた土地には、明治になってから日本橋小学校が建てられており、また、江戸からの商業地の伝統ある場所として、現在も企業・商社が建ち並ぶ土地になっています。
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